宣教概略
私たちの人生は「選択人生」である。究極の選択は、自分の魂、自分の全 存在をどこに、何に、あるいは誰に委ねるか、という選択ではないか。
イエスとその弟子たちは旅の途中、マルタとマリアの二人姉妹の家に招か れた。姉マルタは食事の支度を始めていたが、妹マリアの方は、教師と仰い でいたイエスの足もとに座って話に聞き入っていた。
マルタはイエスに向か って、マリアを手伝わせるように言って欲しいと言う。マリアは女なのにイ エスという先生の足もとで話を聞いていることをイエスが黙認していること
が気に入らなかったようだ。当時女性が教師の足もとに座って学ぶことは、 非常識なことだったからだ。マリアにとっては、イエスというお方の話は自
分の人生を変えるような内容を持っていたのだろう。そして、イエスも、男 も女もすべての人が自分の話を聞くことは当たり前だし、必要だと考えてお
られたに違いない。
マルタのことばを聞いたイエスは「必要なことは一つだけです。マリアは その良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありませ
ん」と言われた。人生において何が一番大事なのかをマリアは知っているの で、ここに座って学ぶことを選択したのだ、ということである。
その後、イエスは再びマルタとマリアの住むベタニア村にやってこられた (ヨハネ12章)。
人々はイエスを招いて夕食の席を設けた。その席で、マリ アは特別に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、髪の毛でその足をぬぐ った。それを見ていたイエスの弟子の一人イスカリオテのユダはマリアの行
為を批判したが、イエスは「マリアは、私の葬りの日のために、それを取っ ておいたのです」と言われた。マリアは大きな犠牲を払ってでもイエスの足
を高価な香油で洗った。マリアは心からイエスを尊敬し、イエスを自らの生 涯の師と仰いでいた。一旦死んだ兄弟ラザロをよみがえらせたイエスをまこ
との神、いのちをご支配しておられるお方として受け止めた。この主に自分 の全て、魂、人生、いのちをお任せすることを彼女は選んだ。
私たちの生活には、価値あることがいろいろある。だが、どうしても必要 なことは一つだけ、私の魂、いのちを安心して委ねることのできる存在を選
ぶことではないか。そして、イエス・キリストはまさに私の魂、いのちをす べてお委ねするに足るお方である。
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