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2023年度   礼拝メッセージ
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2023.09.10

白石剛史師     赦しという宝物 

マタイの福音書6章12,14,15節
  聖書のみことば (新改訳聖書2017)   メッセージ  


今週のみことば
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。(中略)、もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません」
(マタイの福音書6章12,14,15節)

宣教「赦しという宝物」

今回から「赦し」をテーマに学びたい。
聖書が語る赦しには、@神が人を赦す場合と、A人が人を赦す場合があるが、イエス様は@とAが深く関わっていると言われる(マタイ6:12, 14-15)。それゆえ、私たちが人の罪を赦すことができるよう学びをするのは、自らの救いのためにも大切なのである。

 赦しに関しては多くの疑問が出されて来た。1)どうして赦しが命令されなければならないのか。世の中には赦すべきではない罪が幾つもあるではないか。

 2)自分と他者の赦しが不可分なのであれば、他者を赦せない者には自分の赦しを願う資格がないことになるではないか。

 3)罪に対しては赦しよりも罰や償いが大切ではないか。

 4)そもそも人間に罪を赦すことなどできるのか、などである。これらの疑問を踏まえつつ、今回は二つのことに絞って考えたい。「罪とは何か」と「赦しは誰のためか」である。

1.罪とは何か。聖書において「罪」は、@心の汚れ、A残された事実、B神との関係の断絶の意味で用いられるが
赦しの視点から大事なのはAとBである。@の罪に対しては、修練・精進・訓練などが大事だと言えるが、Aに対しては赦すという対処法しかない。一度起きてしまった事実は後から取り消せないからである。そして、事実は事象とその意味から成ることを考える時、赦しは過去に起こった事象の持つ意味が肯定的なものに変わることへの期待の告白だと言える(この点を次回、創世記45・50章から学ぶ)。そして、実は神が赦しにおいて最終目的とされるのが、Bの意味での罪の解決である。聖書は神との断絶としての罪を「死」と表現するが、神は人をこの意味での死から救い出すために赦しを実行されるのである(この点は3回目に創世記18章から学ぶ)。罪の赦しとは、罪人の赦しなのである。

2.赦しは誰のためか。赦しは社会のためではない。何でも赦していては正義がないがしろにされ、社会が混乱するからである。また加害者のためでもない。赦すことで相手が反省するとは限らず、相手がすでに他界している場合さえあるからである。となると、赦しは被害者本人のためだということになる。たとえ世間が皆被害者の味方で、加害者が十分な謝罪と賠償をしても、被害者本人が怒りと憎しみとを抱えたままであれば、本人は身も心もズタズタにされる。神は被害者本人の幸せのために赦しを命じるのである。赦せることは人生の宝物なのだ。では、赦すとはどういう行為のことか。過去を水に流すことでも忘れることでもない。次回、ヨセフの例を通して赦しの意味を学びたい。
参照聖句