2023年度   礼拝メッセージ
月日
聖書箇所

2024.03.24

大和昌平師  キリストにあって神の義と    

第二コリント人への手紙5章17〜21章
聖書のみことば (新改訳聖書2017)  メッセージ  


「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
            コリント人への手紙5章21節

「キリストにあって神の義と」     第二コリント人への手紙5章17〜21章

受難週礼拝において、キリストにあって神から義とされていること、神の前にそれでよしとされていることに ついて、再確認したいと思います。

 第ニコリント5章17〜21節に、特に21節に注目します。
 罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方に会って神の義となるため です。」
十字架でキリストが死なれたのは、キリストが私たち罪人に成り代わって罪の結果としての死を引き受けられ たからだ。だから、私たちはもはや自分の罪の結果としての神の裁きからは解放されていて、キリストにあって 神の前にすべてよしとされているのだ。
 これが聖書の核心部分にあるキリストの受難の意義です。
  硬い表現で言い表しますと、懲罰的代理の論理と言います。
  パウロは一貫して明確な救いの論理を語っていますから、はっきりとわかることを今朝はめざします。 この論理(教理)について、教会の歴史の中で二つの批判がなされてきました。

@一つ目は、ローマ帝国の死刑としての十字架で神の子が苦しみの極みの末に死ぬことが私たちの救いに繋が るなんて、残酷すぎるじゃないか、という感情的な非難です。 キリスト教嫌いの日本人の評論でも、よくある陰口です。残酷な宗教だ、と。 しかし、これは神に対する罪の結果は法的に死であるという事を示しているのであり、残酷だとかといった 感情的な問題ではないということです。
  大事なのは、キリストが私たち罪人に成り代わって、罪の結果を引き受けられたということです。 これについては、ナチスドイツのアウシュビッツ・ボルケナウ強制収容所において、餓死罪を言い渡された ガイオニチェクの代わりに餓死刑を受けたコルベ神父の行動を覚えたいと思います。 脱走者が出たため、不作為に10名が選ばれて餓死刑を受けることになった非合理も甚だしい出来事です。 その一名に選ばれたポーランド人軍曹ガイオニチェクは「私には妻も子供もいるんだ」と泣き騒ぎます。 すると、同じポーランド人の司祭として指導的な人であったコルベ神父が、「私は司祭で妻も子もいないから、 彼の代わりに私が餓死刑を受けます」と申し出た。
  これも全く考えられないことですが、受け入れられてコルベ達10名は裸にされて餓死室に送られた。 日を置いて役人が餓死室に行くと、未だ生きていたコルぺら数人を薬物で死なせたという。 コルベ神父が代わりに死んだことでガイオニチェクは死なないで敗戦を迎え、戦後も93歳まで生きて、コル べの死を伝えました。

A 二つ目は、キリストひとりだけが死ぬことで、どうしてすべての罪人が罪の責めから解放されるのか、とい う疑問です。これは皆さまも考えられたことがあるのではないでしょうか。
  これも法的な話でありまして、第一コリント15章21・22節 「死が一人の人を通して来たのですから、死者 の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあって すべての人が生かされるのです。」とあるとおりです。
  日本の法律にも、会社法人や学校法人など団体に法的な一人格を認めて権利や責任を問う考え方があります。 アダムは人類の代表であって、アダムが罪を犯したことは彼に続くすべての人間は罪の責任を問われますし、 実際に罪の性質を共有しています。
  そして、キリストが第二のアダムとして、罪人ではないのにアダムの罪の責任を負って死なれたことによっ て、キリストにあるすべての罪人は罪の結果から解放されるのです。
  これが聖書の論理であり、現在の日本の法律にも決定的な影響を与えています。
  但し、罪から解放されて、神の前に義とされるのは、「キリストにある」人だけです。
  このことは、民法474条に「弁済をするについて正当な利益を有する者でない第三者は、債務者の意思に反 して弁済をすることができない。」と第三者弁済についての規定が参考になります。
  私たちは一生かけても払えない債務を負っているのですが、そうすることで何の利益も得ないキリストが、 債務のすべてをご自分の死によって払ってくださった。
  しかし、私たちの意志に反してこの弁済は成立しないので、私たちの同意することが条件となります。
  キリストはすべての人に成り代わって、罪の弁済をされたのだけれども、それは罪の債務を背負う人が同 意すること、つまりキリストへの信仰を表明することがなければ成立しないのです。
  ですから、私たちはキリストへの同意、信仰によって罪の責めから解放されるのですが、その同意は私たち の努力や功績ではまったくないのです。

まとめとしまして、今日は少々理屈っぽい話 をしましたが、キリストの受難は感情的な問題ではないというこ とです。パウロは救いの論理を語り、論じています。
 私たちの救いは人の感情で左右されないものであることに今日は注目したいのです。
  罪の結果は死なのであり、私たちはみな罪のゆえに滅びに向かっているのです。
  神から受けた祝福の命を自らの罪のゆえに失ってゆくのです。
  その罪人の死を、罪のないお方が、コルベのようにそこで死ぬ必要のないキリストが代りに死んでくださった という事が大事なのであって、それが残酷だとか言う非難は当たらない。
  むしろ、私が受けるべき死をキリストが代りに受けてくださったことに感謝していただくことが肝要なのです。
  そして、ガイオニチェクが生涯かけてコルベ神父から命をいただいたことを語り伝えたように、私たちはキリ ストから永遠の命をいただいたことを生涯かけて証ししてゆくべきなのです。
  キリストの受難の意味、その論理をしっかりとつかんで、納得をして、キリストへの感謝を深めさせていただ <受難週を今年は過ごしたいと思います。

大和昌平師
             

受難週の出来事 (2024年3月24日〜30日)
  24日 エルサレム入場 マタイ21:1−11
  25日 神殿での出来事 マタイ21:12−22
  26日 エルサレムでの宣教 マタイ21:23〜26:5
  27日 ベタニヤでの憩い マタイ26:6−16
  28日 最後の晩餐、ゲッセマネの祈り マタイ26:17−56
  29日 十字架   マタイ26:57〜27:61
  30日 墓の中   マタイ27:62−66

 31日(来週) 復活節 イースター 

(4福音書の記載があります)