キリストの愛に捕えられて 第二コリント5:11〜21
13節に「私たちが正気ではないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです」とあるように、私たちクリスチャンは「神のために気が狂っている」者たちかもしれない。イエス・キリストさえ、気がおかしくなったと言われた(マルコ3:21)。多数派や権力者たちに気に入らないことをしているなら、この世は、その人を変人扱いする。
パウロはなぜ「気が狂っている」と言われても、平気なのか。それは、「キリストの愛が私たちを捕らえているから」である。キリストの愛があまりにも強く押し迫り、逃れられない。
1テモテ1:15,16「私は罪人のかしらです。そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが…まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」。
今、私たちが罪赦され、永遠のいのちに生きるものとされていること自体、信じられないようなキリストの寛容によるものである。キリストの愛が強く迫り、私たちを取り囲んでいる。
では、キリストの愛に捕えられた者はどう生きるのか。
1 キリストのために生きる15節に「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」と語っている。多くの人は自分のために生きようとする。自分の理想、自分の夢を実現するために努力をする。だが、多くの場合、自己自身に失望する。自分の弱さ、足りなさ、小ささにがっかりする。ある人たちは、自分の願いどおりに人生が進んでいると思う。だが、イエスは言われた。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか(マルコ8:26)」。
パウロは、キリストを信じる前からキリストのことを知っていた。だが、「肉に従って…知っていた」に過ぎなかった。キリストを信じる者の息の根を絶やすことを使命としていた。だが、彼は復活のキリストに出会い、キリストに対する認識がまったく間違っていたことを知らされた。このお方こそ、自分のためにそのいのちを犠牲にしてくださったお方であり、死から復活して、今も生きておられる神であるのだ。このお方こそ、私がいのちをかけてお仕えすべきお方であることが分かった。私たちはキリストのために、どのように生きようとしているのだろうか。
2 新しく造られたものとして生きる17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」自分を形作っていた古い秩序が崩壊し、キリストを主とする新たな体制が始まった。キリストを信じるまで、思いもつかなかったような新たな人生が始まったのである。
3 和解の使者としての務めを果たす(18節?21節)。神がキリストにおいて私たちと和解を成し遂げてくださった。人間が神に背いたのだから、人間のほうから謝罪をしなければならない。だが、事実は、神自らがキリストを遣わして和解の道を開かれたのだ。罪を犯し、罪の責任のある人間に罪の責任を負わせないで、罪の責任のないキリストを処罰なさった。それによって私たちは罪赦され、神との交わりが回復し、神との和解が成立した。その神と人との和解の使者として、神は人間を用いられる。クリスチャンは、神の国を代表して、この世界に生きる人々が神との和解に生きるように、そのメッセージを伝えるという務めをいただいている
私たちに押し迫るキリストの愛を遠慮せずに、そのまま受け入れよう。そのときに、私たちは、キリストのために生き始めることができる。新しく造られた者として、新しい人生観、価値観、人との関係、態度、姿勢をもって生きることができるようになる。そして、そのようなことを可能にする和解の福音の使者として生きることができるようになる。もう一度この圧倒的なキリストの愛を確かめよう。