神を畏れて生きる
1 つり合わないくびきをともにしない (6:14,15)
「くびき」とは、畑を耕すために2頭とか3頭の牛や馬を使 うときに、その首をつないで、同じ歩調で前進できるようにす る器具のことだが、力の違う家畜同士では、まっすぐ進めずう
まく耕すのが難しい。
パウロがここで念頭に入れているのは、キリストを信じていても偶像を礼拝したり、異教的なし きたりに関わることを問題にしていないクリスチャンのことだろう。偶像礼拝や異教的なしきたり
は、クリスチャンにとって、「正義と不法」、「光と闇」、「キリストとサタン (ベリアル)」とがまった く調和がなく、真反対のものであるのと同じように「つり合わない」。当時のコリントの町には多く
の異教的な神々のほこらや礼拝所があり、そこで異教の神を礼拝し、食事を共にする風習もあった ようだが、これまでの人間関係を大切にするあまり、そのような異教的な礼拝に関わるクリスチャ
ンが存在していたことに対するパウロの祈りがそこにある。
2 私たちは生ける神の宮である (6:16〜18)
パウロは旧約聖書から引用して、神は何を望んでおられるか、どんな約束をしているかを以下の ように述べている。「神は私たちキリスト者の共同体のうちに、神は臨在し、ともに生きていてくだ
さる。だとすれば、異教的な信仰に歩む人たちの仲間になって異教の神をともに礼拝しながら、生き るべきではない。そのような中で神とわたしたちの間に、父と子どもたちの間のような親しい交わ
りが可能にされていくのだ」。
全世界を創造した全能の、そして聖なる神が、私たちとの親しい交わりを心から願っておられる。 しかし、私たちの現状をご覧になる神は、私たちと喜んで交わろうと思われるだろうか。ここにキリ
ストの贖いの恵みがある。キリストが私たちの汚れ、罪を覆ってくださる。「幸いなことよ。その背 きを赦され罪をおおわれた人は」とある(詩篇32:1)。キリストの贖いのゆえに神との親しい交
わりが可能にされていることを感謝したい。
3 神を恐れつつ聖さを全うしよう (7:1)
「肉と霊の一切の汚れ」とは、異教的な礼拝をともにすることで、まことの神のかたちである私た ち人間全体が汚染されることである。そのような汚染からの解決は「神を恐れつつ聖さを全う」する
こと以外にはない。
終わりに
クリスチャンはこの世のものではないが、この世に遣わされて、クリスチャンでない人々の中で 世の光、地の塩として生きる存在である。私たちの信仰の良心を汚すことのないように祈りつつ、信
仰を持っていない人たちとの接点を求めていくべきではないか。そのためには、私たちが絶えず「神 を畏れる」歩みをしている必要がある。