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「キリストとの出会い」 ヨハネ福音書4章25-30節
イエスを信じるとは、イエスをキリストとして信じることであって、イエスを立派 な人物として崇拝することや人間イエスを神に奉ることではない。キリストは創造主
なる神と人との仲介者で、神と人とを和解させ、両者の生きた関係を回復するお方で ある。その意味で私たちの最終的な礼拝対象はイエスではなく霊なる神でなければな
らない (ピリピ2:11)。
サマリアの女はキリストとしてのイエスと出会った(ヨハネ 4:25-26,29)。イエ スを最終的礼拝対象としてしまう 「イエス教」 「イエス主義」ではなく、「キリスト教」
と言われる根幹的な部分を誤解しないようにしなければならない。サマリアの女の経 験を通して、この「イエス教」と「キリスト教」の違いを改めて確認してみよう。
1. キリストなるイエスはどんなお方だったのか。
1) 付き合いをしない壁を乗り越える方 (ヨハネ 4:7,9)
2) 普段からそのような姿勢を持っておられた方 (4:27)
3) 社会的弱者や疎外された人に話しかける方 (4:9、5:2-9、9:1-7)
4) 対話の中に救いを与えられる方 (4:25-26)
5) 人の内側を見て、それでも人を捨てない方 (4:29)
これらすべては、目に見えない霊なる神・創造主なる神・救い手である神がどんなお 方かを開示している。人が誰かと握手した時、「~さんの手は暖かい」
「~さんの手は 大きくて安心感を与えられる」 「~さんの手に触れるとホッとする」などと言っても、 それは「手」そのもののことではなく、「手」を通して「~さん」がそういう人だと捉
えているのである。それと同じく、「イエス様は優しい」 「イエス様は憐れみ深い」「イ エス様は寄り添ってくださる」と言っても、それは「イエス」を通して創造主なる神
様ご自身がそういう方だと捉えているのである。「イエス教」と「キリスト教」の違い はその点である。
2. キリストと出会ったサマリアの女
1) 自意識過剰からの解放 (4:28)
2) 過去・現在の汚れ・弱さ・失敗をそのまま受け入れられた (4:29)
3) 人との壁を超えた (4:29-30)
キリストと出会ったからと言って、サマリアの女を以前から取り囲んでいた環境世界 は全く変わっていない。変えられたのは彼女自身の物の見方・考え方である。これか
らも彼女は厳しい現実と対峙していかなければならないが、彼女自身が外界や内界を どう感じるかは大きく変わった。目に見えない神が、彼女をそのまま受け入れ、生き
て働きかけ続けてくださるお方であることに目が開かれたからである。
結。
私がどんな者でしかないか、どんな者に過ぎないかを分かった上で、それでもなお見 捨てず、嫌いにならず、一緒にいてくださるキリスト・イエスを通して、父なる神と
生きた関わりを持つ歩みを続けていきたい。
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ヨハネの福音書4章25〜30節
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
2024年9月8日(日)礼拝 白石剛史師

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