宮の中へ(ヨハネの福音書5章1〜15節)
「宮の中へ」
ベテスダ池での場面から3回目の学びです。今回は特に14節の「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるかもしれない」というイエス様の言葉が何を意味するのかを、安息日規定違反を訴えるパリサイ人たちの考え方との対比の中で考えたいと思います。
序.ベテスダ池から宮の中へ
人々から見捨てられ、神殿に近づくことさえできなかったベテスダ池の男は、「いのち」の与え主である神様を賛美し神殿に出入りできる男に変えられました(5:14)。それは今の私たちの姿でもあります。私たちも、かつては神様と無関係に生きていたのに、その方を礼拝できる器に変えられた点でこの男と同じです。そのことを覚えると、この男への14節の言葉は私たちへの言葉だと言えます。
1.パリサイ人と癒された男の違い
1)イエスを誰と見るか(いのちか律法規定か) この箇所では、癒された男とパリサイ人とで、イエス様への見方がまるで違うのに気づきます。前者はイエス様のことを「私を治してくださった方」(5:11)と捉えているのに対し、後者は「取り上げて歩けと言った人」(5:12)としてしか見えていない。「いのち」に目が向いている人と、規定遵守にしか目が向いていない人との違いが見て取れます。
2)神の属性に触れて生きる 私たちにとって、「いのち」に代表されるような「神様の属性」に目が向くかどうかは、とても大事なことです。人は神様の持つ属性(愛・真理・善・美・義・へいわ・いのちetc.)にあずかれる時、大きな喜びと生きがいを感じます。誰かがそれらを味わって喜んでいる時、パリサイ人のように人間が立てた指標を持ち出してケチをつけるような信仰者とはなりたくないものです。
イエス様はこの男を水の中に放り込んだのではありませんでした。自分で床を取り上げて歩くよう命じられたのです(5:8)。それはこの男が自分の意思と力で癒しを体験し、神の属性に触れて喜びと感謝ができるようにするためだったのでしょう。私たちも「?すべし。?すべからず」と考えるばかりの信仰者ではなく、日常の中での神様との触れ合いに感動を覚えることを第一とする信仰者でありたいと思います。
2.「もう罪を犯すな、そうでなければ…」(5:14)の意味
1)「罪を犯すな」とは イエス様は単に「もう罪を犯すな」とおっしゃったのではなく、「見よ、あなたはよくなった」とおっしゃってから、「もう罪を犯すな」と言われました。つまり「よくなった」状態を継続し続けろという意味での「罪を犯すな」であると言えます。
そして、ここで「良くなった」とは、単に病気が治ったことだけを意味するのではなく、「人間回復した」「救われた」「神との関係を回復した」という意味であると前回学びました。ですから、「罪を犯すな」とは、神様との麗しい関係を断絶するなという意味だと言えるのです。
2)「もっと悪いこと」とは この男が再度神様との関係を失ってしまうことは、何を意味するでしょうか。この男にとって、これまでの神様との断絶は、病のゆえに社会から押し着せられた断絶でした。本人がどれほど願っても神殿には近づけず、万が一近づいても入れてもらえなかったのです。ところが、今自分から神殿に出入りできるようになったにもかかわらず、再度神様との関係を断絶するとすれば、それは本人の責任による断絶、より深刻な神様との断然となります。それがここでの「もっとひどいこと」です。
神様との関係を回復させていただいた者として、私たちも自らの意思で神様との関係を絶ってしまうことのないようにしたいものです。そして、毎日の生活の中で神様の属性に触れる尊い経験を感謝し続ける者でありたいと思います。