「神の御手は悲嘆の中に」 創世記37章1〜4節
「神の御手は悲嘆の中にも」 創世記37:1-4
「ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。」創世記37章2節
1 「ヤコブの歴史」と言われる中でヨセフの一生が記される
37章冒頭で、すでに、父ヤコブのヨセフへの偏愛、ヨセフの自己中心など、悲劇を生 み出す要因はすべて登場する。ヨセフの生涯での一大事は、兄弟たちの手で奴隷として売
られたことである。この悲劇が発端となって事は進んでいく。エジプトでファラオの廷臣 の奴隷となる。後に、兄弟たちはエジプトで宰相に上り詰めたヨセフと再会することにな
る。
2 神からヨセフへの直接の働きかけは見られない
だが、ヨセフの身に起こる出来事の中で、神の御手は確実に働いていた。神は彼を守り 導いておられた。ヤコブがシェケムでさまよっていたとき、兄たちの行方を知らせてくれ
る人物に出合えたこと(37:17)。兄たちの手で穴に置き去りにされようとしたとき、図ら ずも隊商が通りかかり、彼らに売られるために穴から出されて、命拾いをしたことなど
(37:28)。
3 ヨセフは危機の中で神の名を口にしている
誘惑に襲われたとき、「大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょう か」と言って拒否した(39:9)。彼は神を自らの隠れ場とし、みそばで護られた(詩
46:1)。夢の解き明かしは「神のなさること」と、献酌官長らに(40:8)。ファラオの夢 の解き明かしの際も、自分ではなく「神が知らせてくださるのです」と(41:16)。また、
兄弟たちに対しても、飢饉の中、一族の命が救われるために「私をここに遣わしたのは神 なのです」と(45:8)。
4 後にヤコブ一族の子孫は、エジプトでの奴隷状態と解放を経験する ヨセフの出来事の次に、出エジプトの出来事が来る。ヨセフの出来事には、いわば、次
の出エジプトの出来事への序曲としての意義がある。
では、出エジプトの出来事にはどういう意義があるのか。ヤコブの子孫であるヘブル人 たちは、エジプトで長い間奴隷の期間を過ごさなければならなかったが、神はその状態か
ら解放してくださった。奴隷状態と解放。この二つは聖書全体のメッセージと重なる。
人は罪の奴隷であったのに、キリストが血を流してくださったことにより、罪の奴隷状 態から解放していただいた。パウロは、自分は罪の奴隷状態から解放された者だと記して
いる。したくない悪を行っているのは、自分のうちに住んでいる罪である、「だれがこの 死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうかh」と言っていたパウロは(ローマ
7:24)、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅 ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」という告白に導かれている(ロ
ーマ6:6)。
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創世記37章1〜4節
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
2025年3月16日(日) 稲垣緋紗子師
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