2025年度   礼拝メッセージ
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宣教題
聖書箇所
2025.04.06
稲垣博史師
キリストのしもべであること

コリント人への手紙第二11章16〜33節

聖書のみことば (新改訳聖書2017)  メッセージ  

「 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。」    コリント人への手紙第二11章23節

  キリストのしもべであること( コリント第二 11 章 16〜:33 節)

1. 狂気したように
バウロは 23 節で「彼ら(13 節の「偽使徒、人を欺く働き人)はキリストのしもべですか。私は狂気したように言いま すが、私は彼ら以上にそうです」と述べる。「狂気」を示すギリシア語のもともとの意味は、「理性的に考えることか ら外れること」である。「みなさんは私が気がふれたように思うかもしれないが、コリントの教会を牛耳っている自称 使徒たちが、自分たちはキリストのしもべと言っているのなら、私は、彼ら以上に本物の使徒なのだ。キリストのしも べであることについては、どのような苦しみに会っても、絶対変わらない、ゆずれない。キリストのしもべであること のすばらしさ、価値、光栄、喜び、それはなにものにも変えることはできない」とパウロは言おうとしている。キリスト の愛に出会い、その愛に押し出され、キリストにすべてをゆだねてお仕えすることが彼にとってすべてとなった。そ して、彼がキリストのしもべとして経験した屈辱、迫害、苦しみ、危険を一つ一つ思い起こしている(23?28 節)。 当時の人々は、人生においてどんな業績があるか、どんなに名誉ある地位にあり、多くの財産があるかが、何より もの誇りであった。そんな苦しいことなど、愚かな人間が経験すること、馬鹿がするような経験だったに相違ない。 だが、パウロにとっては、その一つ一つがキリストのしもべとしての誇りであり、勲章であった。

2. 理性的にも
「狂信的」と呼ばれる人たちと、このパウロの場合の違いはどこにあるのか。パウロも単に一人の熱狂的な信者だ ったに過ぎないのか。
  確かに彼が回心したときには、強烈な体験があった(使徒9章)。しかし、それがキリストに関しての彼のすべてで はない。彼はユダヤ人として旧約聖書に示された神を信じ、当時の大学者ガマリエルのもとで厳しく聖書からの教 育を受けていた(使徒 22 章 3 節)。体験的にだけでない。旧約聖書が指し示している救い主がこのイエスご自身 であることを知的にも、理性的にもしっかり理解することができた。
  バウロにとって、このキリストを知ることができたことは、どんな財産、地位、名誉にも勝り、このお方にしもべとして お仕えすること以上に喜びはない。キリストに仕える過程で、危険や困難や死の恐れが自分を襲ったとしても、そ れは覚悟の上である。ただ、キリストの力が現されればいい。キリストのすばらしさが示されればいい。そのために 自分が馬鹿だとか、愚かだとか、気が狂っているとか、弱いとか思われても構わない。そういうパウロのキリストヘ の熱情がここから伝わって来るではないか。 終わりに キリストを知ることを、日々新たに、日々より深くと願わざるを得ない。単なる感情ではない。聖書のみことばを通 してこのお方と深い交わりをいただき、魂が内側から変えられ、燃やされ、強くされることによってのみ、キリストのし もべとして生きる熱情は、生まれてくるのであるから。
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小山田格『旧約聖書におけるキリスト』 いのちのことば社 2024 年 15 ページから 「旧約聖書の中心はイエス・キリストである」と申し上げたら、驚かれるでしょうか。実は、イエス・キリストご 自身が次のように言っておられます。 「それからイエスは、モーセからすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書(旧約聖書)に書い てあることを彼らに説き明かされた」(ルカ14:27)。 主イエスの時代の聖書とは、旧約聖書のことです。主イエスはなんと、旧約聖書全体はご自身について書 いてあるのだと言われたのです。

コリント人への手紙第二11章16〜33節

11:16 もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。
11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。
11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。
11:20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。 11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。 11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
11:31 主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。
11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、
11:33 私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした。