2025年度   礼拝メッセージ
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宣教題
聖書箇所
2025.04.13
白石剛史師
受苦する者として
イザヤ書53章1〜6節、詩篇77章1〜12節

聖書のみことば (新改訳聖書2017)  メッセージ  

「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。」     詩篇46編1節

 「受苦する者として」 イザヤ53章1-6節、詩篇77篇1-12節

  受難週に当たり、イエス・キリストが受けた苦しみの意味と、苦しみの中で私たち信 仰者にはどんな精神活動があるのかを考えたいと思います。

 1.イエス様は死ぬためだけでなく、苦しむためにもこの世に来られた
 1)イザヤ53章のメシア預言は、イエス様の十字架のことを語るだけではなく(5-6節 )、メシアが私たち人間と同じように苦しみを味わうことも語っています(2-4節)。イ エス様のメシアとしての使命の中には、「苦しむ」ことも含まれていたのです。
  2)「使徒信条」を見ても、初代教会の時代からイエスの苦しみへの信仰の大切さが 告白されているのを知ることができます。「処女マリアより生まれ」の後には、イエス様 が公生涯でなさった様々な教えや奇跡のことが告白されても良いはずなのに、それらは全 く触れられず、いきなり「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」に飛んでしまうのです 。イエス様の十字架を「贖い」の点だけに絞って考えるなら、イエス様は血の代価を差し 出して死ねばよかったのですから、苦しみのことをわざわざ入れなくてもいいはずですの に、「使徒信条」でははっきりと「苦しみを受け」と告白されています。イエス様による 救いの成就にはイエス様の苦しみも不可欠だったという告白なのです。

  2.「苦しみ」の中での信仰者の精神活動(詩篇77篇を指標として)
  1)苦しみについて考える時、この世に苦しみがある目的や原因、あるいは「愛の神 がどうして苦しみの存在を許すのか」などの方向に議論が向くことが多いものです。それ はそれで意義深いのですが、それらの議論は、実際に苦しんでいる人には第三者的解説の ようにしか聞こえないのではないでしょうか。苦しみの中に放り込まれている当事者は、 理性的な説明をされても感情がついていきません。むしろそのような時に大事なのは、苦 しみの只中で信仰者にはどんな精神活動があるのかを知ることでしょう。
  2)イエス様でさえ、苦しみの中で超然としておられたわけではありません。十字架 が近づいて来た頃、「わたしの心は騒いでいる」(ヨハネ12:27)とおっしゃり、ゲッセ マネの園で血の汗を流して祈り、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨 てになったのですか」と呻かれたように、イエス様は悶え苦しんでおられたのです。まし てや私たちが、悟りを拓いた超人のような心を持つことなどできませんし、神様もそんな ことを求めてはおられないでしょう。その意味で、詩篇77篇に見られる詩篇作者の悶え苦 しみを味わうことは、赤裸々な信仰者の魂の格闘を知る上で意義深いと言えます。
  3)詩篇77篇の作者がどんな辛い経験をしたのか具体的には何もわかりませんが、彼 が信仰者としてその苦しみの中でどのような精神活動をしたかは、私たちの指標になりま す。 ・叫ぶ(1節)…瞬間的な感情の爆発です。「今」という時に焦点があるもので、苦難 の背景を説明されて頭では理解しなければと思える時でも、心が納得しない現状から出て くる鬱積した感情のガス抜きが「叫び」だと言えます。
 ・嘆く・うめく(3節)…継続する感情の吐露です。あまりにも厳しい現実に放り込 まれる時、私たちは安易な慰めにむしろ怒りさえ覚えるものです。「私のたましいは慰め を拒んだ」(2節)という記述には、作者の抱える激しい心の痛みが感じられます。その ような時、私たちはうめくしかありません。
  ・心と語る(6節)…自分と向き合う時です。苦しみに襲われた当初は、頭も心も混乱 して何も考えられないものですが、叫びと嘆きを続けながら時間が経つにつれ、独り言の ように自分に語りつつ、自分で自分を慰め、心が静まるのを待つようになるものです。ペ ットやぬいぐるみを相手に会話しているような姿を見ることもあります。
  ・思い起こす・思い巡らす(11-12節)…過去の記憶の再整理と恵みの思い起こしです 。さらに時間が経ちますと、神様のみわざのことを考える余裕が出てくるかもしれません 。「これまで祈って来た結果で今があると思っていたのに、あれは私の思い違いだったの か。」「もしかして神様の気が変わってしまったのか」など、自分なりに理屈をつけよう としたりします。しかし同時に、今までの神様の不思議な守りを思い出して、自分が決し て見捨てられてはいないことに気づいたりするものです。その意味で、苦難の時は過去の 記憶の再整理の時であり、過去の捉え直しの時でもあるのです。

  結.
  自らの信仰を論理立てて説明したり、思想を練り上げたりすることは大切な信仰活動です が、そのような論理的思考の世界・知的世界だけが信仰生活ではありません。神様は私た ちの信仰生活をその感情も含めて、見ていてくださいます。現実生活において、私たち人 間がどれほど困難や災難に直面せざるを得ないかをご存知なればこそ、神様が理性だけで なく感情も含めて、言葉だけでなくうめき・嘆きも含めて、私たちの人格全体を受け止め てくださるお方であることに大きな慰めを見出すことができます。悟り切った超然的信仰 者ではなく、苦しみの中での悶え喘ぎを通しても神様は私たちと向き合ってくださること を知っている信仰者でありたいと思います。

イザヤ書53章1〜6節、
53:1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
53:2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし,主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

詩篇77章1〜12節

<77> 指揮者のために。エドトンの調べにのせて。アサフによる。賛歌。
77:1 私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。
77:2 苦難の日に私は主を求め夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。けれども私のたましいは慰めを拒んだ。
77:3 神を思い起こして私は嘆き悲しむ。思いを潜めて私の霊は衰え果てる。セラ
77:4 あなたは私のまぶたを閉じさせません。私の心は乱れてもの言うこともできません。
77:5 私は昔の日々遠い昔の年月について考えました。
77:6 夜には私の歌を思い起こし自分の心と語り合い私の霊は探り求めます。
77:7 「主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。
77:8 主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。
77:9 神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか。」セラ
77:10 私はこう言った。「私が弱り果てたのはいと高き方の右の手が変わったからだ」と。
77:11 私は主のみわざを思い起こします。昔からのあなたの奇しいみわざを思い起こします。
77:12 私はあなたのなさったすべてのことを思い巡らしあなたのみわざを静かに考えます。