わたしの恵みは十分である(コリント人への第二の手紙12 章1〜13節)
1 誇らずにはいられない体験
パウロは「14年前に第三の天にまで引き上げられ、口に言い表せない、人間が語ってはならない ことばを聞いた」(2?4)という自身の体験を第三者の体験のように語っている。
「第三の天」とは、ユダヤ人が天を三つの段階に分類していたことによると考えられる。第一の天 は、この大気圏。第二の天は、天体(星など)の存在する領域、そして、第三の天は、神がおられる
霊的な領域だとされている。パウロはこの第三の天に上げられたということのようだ。主イエスは 十字架にかけられていた強盗に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいます」と言われた
が、そのパラダイスのことだろう。実際にこの経験がいったいどういうことなのか、よくわからない が、そのような大きな経験をした人間は他人からもすごい人だと言われ、自分もそれを自慢し、高
慢になり、見下げるようになるという弱さを持っている。
2 肉体のとげ
しかし、パウロは、自分のからだに一つのとげが与えられた、と7節で述べる。とげは人の肌をちく りと刺し、痛みを与えるが、自分が何かを自慢し、自分は人よりも優れた人間なのだという思いがむ
くむくと頭をもたげると、自分の良心をそのとげがちくりと一刺しするということだろう。その 「とげ」がいったい何なのか、よく分からないが、目の病気であったのではないか(ガラテヤ人
の手紙4 : 14、15)。
3 3度の祈りへの答え:「わたしの恵みは十分である」
パウロは三度、このとげが取り去られるように主に祈った(8)。大きな痛み、苦しみが三度襲っ た、その度ごとに主に癒しを求めて集中して祈った、ということかもしれない。
そのパウロの切実な祈りに対しての神さまの答は、9節にあるように、「わたしの恵みはあなたに十 分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」だった。
「主の恵みは十分である」は、現在時制で記されている。とげは、依然としてパウロのからだにつ き刺さり、痛みをもたらし、苦しみをもたらしている。だが、恵みもまた、依然として変わらずに
パウロに注がれている。身体的、精神的、霊的に自分の弱さを知らされた者が、恵み深い主の前に出 るとき、心潤され、元気が与えられ、生きる意欲が生まれてくる。
終わりに
私たちもなかなか解決しない問題を抱えている。主に、取り去ってくださいと願っても、つらい状 況がそのまま続くと、私たちは神の愛を疑い不安になる。だが、私たちは、そのようなとげをいただ
くことを通して、主の前に謙遜にさせられる。自分がまさに土の器であること、主の前におごり高ぶることな く、「私の恵みは十分である」と言われる主にゆだねて生きること以上に、私たちにできることはな
い。どんなことがあっても、「私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」という主の恵み深い約束を握 り締めて生きることができる。弱さの中で主の恵みの豊かさを受け止める時に、主の力がフルに現れる。