序.
今回の箇所は、特に16節を根拠に「クリスチャンは地の塩・世の光として良い行いを することによって人々に感銘を与え、救いに導くべきである」と教えられることが多いが
、ここでイエスが言っておられることは少しニュアンスの違うものである。
この箇所での「地の塩・世の光」の意味を正しく理解するためには、文脈から見て二 つの点が鍵になる。一つは、ここで「あなたがた」と呼ばれているのが、迫害を受けてい
る人たちのことだという点。もう一つは、この箇所が含まれる「山上の説教」のテーマは 、神・イエスがどんなお方かを伝えることであるゆえ、「地の塩・世の光」の典型はイエ
スご自身である点である。今朝はこれらを踏まえて「地の塩・世の光」として「良い行い 」をすることの意味を考えてみたい。
1.「あなたがた」とは迫害されている者たちのこと
「あなたがたは地の塩だ。世の光だ」と言われる時の「あなたがた」とは、旧約時代 の預言者のように、人々からののしられ、ありもしないことで悪口を言われるような迫害
を受けている人のことである(マタイ5:10-12)。彼らは社会貢献するどころか、むしろ 社会から疎外されていたのである。しかし、そんな「あなたがた」に向かってイエスはこ
こで「あなたがたは地の塩・世の光です」と現在形で語られたのであるから、ここでの「 塩気」「光」「良い行い」は、この世的に評価される働きのことではないと理解できる。
2.「地の塩・世の光」の典型はイエスである
今回の箇所は「幸いな人(神に祝された人)」についてのメッセージから続くものだ が、そこでリストアップされている人々は、イエスにおいてその典型を見ることができる
。したがって、ここでの「あなたがた」の典型はイエスご自身であり、イエスこそ「地の 塩・世の光」なのだと言える。
3.イエスと出会うことで
イエスご自身が「地の塩・世の光」であるゆえに、聖書にはイエスと接点を持ったゆ えに迫害を受ける(敵対的緊張の中に放り込まれる)ことになった人、すなわちイエスを
信じることで「地の塩・世の光」とされた人が登場するのである(ルカ6:6-11、14:1-4、 ヨハネ5:2-13、9:8:34など)。つまり、「塩気」や「光」は人間が努力して身につけたり
作り出したりするものではなく、与えられるもの。私たちはイエスと出会うことで「地の 塩・世の光」にのではなく、のである。
4.塩気や光が与えられる目的
16 節のイエスの言い方を見ると、地の塩や世の光はクリスチャン自身が良い評判を得 るためのものでもなければ、社会を良くするためのものではなく、人々が天の父をあがめ
るようになるためのものだと分かる。迫害の中(この世的に何の希望もないような厳しい 現実の中)に置かれた人が、神に贖われた者として神にのみ希望を置いて生きている姿を
見せる時、それを見る人は「天の父」に目を向けることになる。水野源三氏や星野富弘氏 の姿が思い浮かぶ。
5.人々が天の父をあがめるように
クリスチャンは、人が天の父をあがめるために用いられる「地の塩・世の光」である 。社会的善行によってキリスト教を宣伝するためではない。クリスチャンが社会的善行を
するのは悪いことではなく、むしろ奨励されていいことではあるが、社会的善行は何もク リスチャンの専売特許ではない。一般市民として誰しもが社会貢献をすることができるし
、実際多くの人々がそれを行なっている。しかし、クリスチャンが行うべき「地の塩・世 の光」としての働きは、「地の塩・世の光」そのものであり神の愛そのものであるイエス
の言葉とわざを証し続けることである。
イエスがこの世に来られた目的は、この世の贖いであって改革や変革ではなかった。 イエスは、天の父なる神が人を贖う(ご自身のところへ買い戻す)ため、自ら人となって
人間世界に来てメッセージを語り、疎外されていた人と共に生き、最終的には人が受ける べき背きへの刑罰を自ら身代わりに受けるほど私たちを愛しておられるお方であることを
身をもって証しされた。そのイエスを証しすることで、天の父なる神は私たちと共に生き 、その悩みを見、叫びを聞き、痛みを知ってくださるお方であることを証しすることこそ
、「地の塩・世の光」たるクリスチャンが行う「良い行い」なのである。