私たちともにおられる神(マタイ1章18〜25節)
1. 婚約者マリアの解任とヨセフの苦渋の決断
マリアの懐妊を公にすれば、彼女は姦淫の罪で石打刑となり、家族は共同体から抹殺された。 ヨセフがひそかに離縁状をマリアに渡そうとしたのは、マリアの「罪」を許せないが、マリア
とその家族を破滅から救うためだった。
ヨセフは「自分を裏切った」マリアもなお守ろうとした義と慈愛の人だった。
2. ヨセフの信仰によって
ヨセフの夢の中に主の使いが現れ、マリアが聖霊によって身ごもったこと、このことは預言の 成就なのだということを語った。
聖霊によってマリアから生まれる男の子によって、救いがもたらされるという壮大な神の計画 が実現するという神のみこころを、ヨセフは信仰をもって受け入れた。
出産までヨセフはマリアを「知ることはなく」、生まれた子にイエスを名づけた。
3. 神が私たちとともにおられる
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもってい る。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7章14節)
人間の人生の目的は神を知ることであると旧約聖書は一貫して語っている。 「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。
全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 (ホセア書6章6節)
そして、旧約聖書において「知る」とは、人あるいは物と近い関係において生活することで 、 それによって生きた交わりが生まれ、共に在るということが生じる。
人に神を見ることは決してできないし、神そのものは常に人から隠されている。
しかし、神は常に人とともにおられたということが旧約聖書全体で示されている。 「神は仰せられた。『わたしが、あなたとともにいる。』」
「神はモーセに仰せられた。『わたしは〔わたしはある〕という者である』」 (出エジプト記2章12、14節)
神は人とともにおられ、人は神のことばを聴いて呼びかけること・祈ることによって生きる 。
人とともにおられる神の本質はついに神の子イエスが人として生まれことにより表わされた 。
4. キリストが私のうちに生きておられる パウロは「神がともにおられること(インマヌエル)」を強く意識して生きていた。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉 において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分をあたえてくださった、神の御子
に対する信仰によるのです。」 (ガラテヤ人への手紙2章20節)
もはや罪ある私が独り生きているのでなく、キリストと一つにされて生きているのだ。 それはもはや私ではなく、キリストが私において生きておられるということだ。
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マタイによる福音書1章18〜25節
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
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