「試練を通して成熟へ」ヤコブの手紙1章2〜4節
1 試練にあうことは「この上もない喜び」なのか
(1)クリスチャンたちはどのような試練を受けていたのか 教会内の社会的立場の違いによる差別(2:1?13)、真の愛が伴わない口先だけの信仰者の存在(2:14?26)、互いの間の悪口やさばき合い(3:1?12、4:11、12)などの問題があり、それは信仰的な試練であったに違いない。
(2) 主イエスは、試練を喜んで受け止めることを教えられた 「私のために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい」(マタイ5:11~12)。
(3)使徒ヤコブが語ろうとしていること ヤコブがここで語っているのは、これは試練だから忍耐しなさい、忍耐が肝心だと身構えることとは違う。試練を避けることなく、主から与えられた訓練として受け止め、試練の只中を通過する中で、自分の信仰がどのような信仰なのかを確認することができ、何が自分に足りないのか、何をどうすればいいのかを主に求めて歩む。それ自体が忍耐のプロセスそのものである。自分の力の弱さを認め、主を信頼して、すべてを委ねて歩むこと、見た目は絶望的であっても、主にはご計画があると主を信頼し、希望をもって生きる姿勢、それが忍耐ではないか。ヤコブが「忍耐を完全に働かせなさい」というのは、その忍耐のプロセスを辛いからとか、しんどいからと言って、途中で投げ出したりせず、いつまでも忍耐のプロセスを継続させなさい、ということであろう。
2 「成熟した、完全な者となる」とは 「完全な者」とは、決してどこにも欠点がなく、罪を犯すこともなく、信仰者として完全無欠な人である、ということではない。旧約聖書の「全き人」という表現に近いと思われる。ノアは「全き人」と言われ(創世記6章9節)、アブラムは「全き者であれ」と言われている(創世記17章1節)。欠点や失敗はあるのだが、「神とともに歩み」、「主の前に歩む」人が「全き人」なのである。信仰に生きる者は聖書の示す人間のあり方を教えられている。私たちは、個人生活においても、また社会生活においても、「全き人」として育てていただける特権をいただいている。
結語 様々な試練の中に私たちは置かれている。試練、試みのとき、それは信仰者として成熟した、「全き人」とされる機会を神が備えてくださったのだと積極的に受け止め、神の前に歩み続けるものでありたい。星野富弘さんが、このような詩を書いている。
冬があり 夏があり
昼と夜があり
晴れた日と雨の日があって
ひつの花が咲くように
悲しみも苦しみもあって
私が私になっていく