惜しみなく、とがめることなく ヤコブへの手紙1章5〜8節
ヤコブは「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」と勧める。知恵のある人、成熟、賢さ、洞察力を豊かに備えた人になりたいなら、何よりも神にお願いすること、求めることですよ、とアドバイスをしている。
ここでヤコブは、知恵をくださいと神に求める時に、まず大切なのは私たちの神はどういうお方なのかをしっかりわきまえることなのだ、と言っている。
私たちが信じている神はどう言う神なのか。ヤコブは「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神」であるという。
・「惜しみなく」とは、「まっすぐで、わき目も振らず、確固たる意志がそこにある」というニュアンスのことば。「ためらうことなく」と訳す聖書もある。
・「とがめることもせず」とは、「相手がどんな問題を持っていても、どんな過去があろうと、それについて非難したり、問題視したりしないで」という意味合いがある。
聖書の神は、たしかに聖なる神であり、人の罪や悪に対しては厳しいお方ではあるが、同時に心が広く、小さいことにこだわることなく、寛容で気前の良いお方でもある。主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたくものには開かれます。…天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」(マタイ7:7〜11)と言われた。身を乗り出して、私たちの声に耳を傾けておられ、その声に応答しようと待っていてくださる、神の姿を思い浮かべさせられる。
では、神が気前が良いお方なら、何でもいいから与えてくださいと祈ればいいのか。ヤコブは、いやそうではない、「少しも疑わずに、信じて求める」ということだと言う。「少しも疑わず」とあるが、何を疑わないのか。当時のユダヤ人で、神の存在を疑う人はいなかっただろう。だが、神の存在を信じていたとしても、自分たちの神が気前の良い、寛容なお方であることについて、半信半疑である場合もある。
そのような確信がないままの状態を、ヤコブは海の大波のように、風に吹かれるまま揺れ動く状態である、と言う。また、二心で心が定まっていない状態である、それでは心から神に求めることができず、神から知恵をいただくこともできないのだ、と言う。
主は私たちの心をご覧になる。イエスは、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と言う律法の専門家の問いに、「あなたは心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めこそ、重要な第一の戒めだ、と申命記のことばを引用された。「尽くして」は、元々「すべて」をさすことばが使われている。つまり、心が二つに分かれている状態、一方で神に心を向けなければと思いつつ、一方では祈ってもどうなるかわからないというような心の状態ではなく、心のすべて、思いのすべて、知性のすべてをもって主を愛し、信頼し主に求めることである。
私たちの神はあわれみ深いお方である。その祈りがみこころに沿った祈りであるなら、未熟で不完全な者の祈りにも耳を傾け、その祈りに応えてくださるお方である。主が喜ばれるのは、子どもが親の懐に飛び込んでくるような一心な思いからの祈りである。
私たちも海の大波にほんろうされるような経験の中で、どうしたらいいか分からないことに直面するだろう。詩篇119篇97節?104節を読もう。敵よりも、先生よりも、老人よりも賢さを与えるのは神ご自身のみおしえ、みことばであることを忘れないようにしたい。