2025年度   礼拝メッセージ
 
月日
宣教者
宣教題
聖書箇所
2025.11.09
白石剛史師
愛に生かされる
マルコ福音書5章21-24, 35-43節

聖書のみことば (新改訳聖書2017)  メッセージ  


「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」  
  ヨハネの手紙第一4章16節  

「愛に生かされる」マルコ福音書5章21-24, 35-43節

  今朝は、会堂司ヤイロの娘をイエス様が生き返らせる出来事を味わいます。
  序.長血の女の癒しと救いによる中断が意味するもの
 
今回の出来事は、十二年の長血を患った女の癒し(マルコ5:25-34)によって一時中断さ れるという特徴を持っています。長血の女が社会から疎外されていた人物だったのに対し て、会堂司は当時のユダヤ教礼拝堂での説教者を決める権威を持つ人物として人々から信 頼され、信仰の指導的立場にある町の名士でした。イエス様の癒しと救いは、社会的弱者 にも強者にも、男にも女にも分け隔てなく届けられるのです。今回はこの独特の特徴を持 った箇所を聖書テキストに沿って辿りなから、イエス様のもたらされる福音の力を味わい たいと思います。

1.ヤイロの懇願に見られる彼の価値観(5:23)

1)「救われて生きられるように」・・・肉体が死んだら終わりという発想
  会堂司の切羽詰まった言い方は、愛娘への父親としての愛情の表れであることは確かです が、人の生涯をこの地上での肉体的いのちに限って考えてしまうことの象徴でもあります 。今のこの時点での彼のイエス様への信仰は、まだ現世の枠内でのものでしかなく、「神 の支配と人間の生は肉体の死をも越えて存在する」という視点は、彼にはなかったのです 。
)「おいでになって、手を置いて」・・・時空間に制限される神
  彼はイエス様に自宅へ来ることと、娘に手を置いて祈ることとを求めています。イエス様 ・神様は時空間に制限されず、たとえその場にいなくても、接触がなくても、みわざを成 すことのできるお方であることに、彼はまだ気づいていなかったのです。

2.問題の発生
  会堂司の家に向かおうとした矢先、当の少女は死んでしまいました。しかし、それ自体は イエス様にとって問題ではありませんでした(5:35-36)。むしろ大群衆が一緒に来よう としたことが問題でした(5:24)。それはこの奇跡が見せ物のようになり、人々がイエス 様を王に奉ってしまう危険があったからでしょう。イエス様は愛する弟子の中から三人( ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)だけを連れてヤイロの家に行かれました(5:37)。

.現場にて・・・肉体の死を悲劇と演出する人間文化(5:38-39)
会堂司の家に行ってみると、そこには悲しみを演出する泣き女たちの姿がありました。人 間の死を殊更に悲劇にしてしまう人間の哀しさに満ちて、イエス様は彼らを外に出し、近 親者だけを伴って静かに少女と向き合われるのです。

4.肉体の死を眠りと言われるイエス様(5:39)
  1)人の生涯の舞台はこの世だけではない・・・武士道の時代から「どのように死ぬか」 を深く考える文化を持つ日本では、太平洋戦争中は特に「お国のために命を捧げる精神」 が美徳とされ、本心は押し殺してでも死を恐れない生き方が賞賛されていました。戦後の 日本は特にそれへの反動もあって、「この世」での人生にのみ価値を見出す教育がなされ てきたと言えるかもしれません。しかし、問題は死者がどんな評価や評判を残すかではな く、死ぬ本人にとっての自らの肉体の死の経験です。少なくとも聖書は、イエス様の言葉 とわざを通して、肉体の死が人の生の終わりではないことを証しています。
  2)肉体は死んでも関わりは死なない・・・肉体だけの見地から言えば、人は死んだら無 になると言えるかもしれません。しかし、遺された者たちにとって、死者は消滅してしま うものではありません。生前であってもその人の人格は肉体的現在を超えています。その 人の思想、出版・発行・発信物、匂い、噂、評判、発言、人脈、オーラ、過去の思い出、 恩義など、その人の存在感は生前からその人の肉体的枠を超えて人々に影響を与えていて 、私たちはそれら全体を材料としてその人の「人格」をイメージして付き合っているもの で、そのイメージされた「人格」とのやりとりは、その人の肉体が死んでも続けることが できます。
  3)再臨への備えは死への備え・・・イエス様が肉体の死を「眠り」と表現されたことは 、人が死ぬことは究極の熟睡に入ると捉えることができます。全身麻酔で手術を受けた時 、麻酔で眠くなって次に気づいたら手術が全て終わっていた時のように、私たちは肉体的 に死んで意識を失い、次に気づいたら再臨の主の前に立っているのです。ですから、「再 臨の主に会う備えをする」とは、実質的には自らの肉体的死を迎える時に対して備えをす るのと同じだと言えます。

5.少女の生き返り(5:40-43)
1)肉体の死が眠りであることの実証・・・イエス様が少女の死を眠りと表現したことを 嘲笑った民衆たち(5:40)に対して、この少女の生き返りはショックだったに違いありま せん。百の言葉を費やすよりも、肉体の死を超えて働かれる神様の力と人間のいのちのあ り方に目を開かせるものとなったはずです。
2)愛の中で・・・少女を生き返らせるこの出来事は、三つの意味で愛に包まれたもので した。一つは、イエス様が少女の周辺に愛に満ちた人々だけを置かれて行われたわざであ ったこと(両親と三人の弟子)。二つ目には、少女へのイエス様の「タリタ、クム」とい うアラム語の呼びかけ自体が愛に満ちたものであったこと。第三には、生き返った少女を 愛する家族と共なる日常生活の中へ戻されたことです。イエス様の働きは決して市民活動 や革命運動ではありません。人を神の愛と人の愛の中に生かす働きなのです。

マルコ福音書5章21-24, 35-43節

5:21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
5:23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
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5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。