2025年度   礼拝メッセージ
 
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宣教者
宣教題
聖書箇所
2025.12.07
稲垣博史師
私たちの誇り
ヤコブの手紙1章9〜11節

聖書のみことば (新改訳聖書2017)  メッセージ  


どうかあなたに身を避ける者がみな喜びとこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。」    
詩篇5篇11節

真に誇りとするべきこと (ヤコブの手紙1章9〜11節)

 1.  経済的な試練の中で(9節)  当時の教会には「身分の低い」と呼ばれる人たちも多くいた。社会の底辺で生きていた経済的に貧しい立場の人たちのことであろう。当時は飢饉が頻繁に起き、迫害のゆえに国外に追放されたキリスト者もいたと言われている。キリスト者であるという理由で働くことができなくなった人たちもいたかも知れない。  そのような試練の中で、人は落胆し、絶望し、生きる力をそがれてしまう。そういう者たちに、ヤコブは、「自分が高められることを誇りなさい」と呼びかける。パウロは「私たちの国籍は天にあります(ピリピ3章20節)」と書いている。つまり、私たちはすでに天的な領域の立場を与えられ、そしていつか将来、天的な領域にふさわしい栄光の存在に変えられるという希望をいただいている。ヤコブも2章5節で、「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富むものとし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか」と語る。  とは言っても、経済的な問題がどうでもいい、とヤコブは言っているのではない。2章を読んでいくと、助けの必要な人たちに現実的に救いの手を伸ばすことこそ、信仰者のあるべき姿だと言っている。どんなに経済的な困難があっても、それがすべてではない。神から見捨てられたのではない。絶望しなくていい。もうあなたは神の所有物。天的な立場に置かれている。そのことを喜び、誇りとして前を見て進むように、と励ましている。

 2 富んでいる人が持つべき誇り(10、11節)  教会の中には、経済的に力のある人たちもいた。その人たちには「高められる」ことよりも、「自分が低くされることを誇りとしなさい」とヤコブは勧める。富んでいる人たちにとって、低くされることとは、どういうことか。自分だけでなく、自分の子孫たちも安心して生きていける財産があるということであれば、それは神の恵みである。財産を主の御心に沿って用いるならば、主は喜ばれるに違いない。だが、自分に与えられた富は自分の力で得たもの、自分の所有欲を満たすために思いのとおりに用いることのできる自分の所有物と考えるならば、それは富を誇ることにつながる。ヤコブは富そのものが悪いと言ってはいない。富を委ねられた人間自身の問題を扱っている。  そして、ヤコブは「富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行く」という。どんなに富を得た人、美しい花のように人から素晴らしいと見られる人であっても、花は落ち、「旅路の途中で消えて行く」とヤコブは記す。4章13節以下でヤコブは当時町から町へ商売のために旅を頻繁にして、もうけしていた人たちも「消えてしまう霧」だと言う。どんなに商売がうまく行っても、どんな形でこの地上のいのちを終えるのか、だれにもわからない。豊かになることだけを求め、それを誇りにして生きることの虚しさがそこにある。  そのような者にとって何よりも大切なことは、「自分が低くされることを誇りと」することだと言われる。「低くされる」とはどういうことか。4章10節では、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高く上げてくださいます」と言っている。どんなに豊かな人であっても、その豊かさがその人を真に生かすのではない。富や豊かさは束の間のものに過ぎず、最終的に頼りになるものではない。主の前には自らは罪人であり、ただただ主の一方的な愛によってのみ、生きることができる小さな存在であることを認めること、へりくだること、それによって自分が神の子どもとされる恵みをいただくことができるのだ、と受け止めることこそが何よりも必要なのだということである。自分の誇りは、いつか消えゆく富にあるのではない。神の前にへりくだることによって、神に受け入れていただける身であることを誇りとするということである。

 3 真に誇りとするべきこと  貧しくても、富んでいても、その経済状態によって、一喜一憂するべきではない。私たちが真に誇りとするべきことは何か。パウロはガラテヤ人への手紙6章14節で「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」と記している。私たちにとって、イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものはない。私がこのように神を礼拝することができる者となり、神とともに生きることが可能にされたのは、御子イエス・キリストが私の罪のすべてをその身に背負って、私の罪の責任をその死によって引き受けてくださった、という事実があるからであることを決して忘れないでいたい。

ヤコブの手紙1章9〜11節

1:9 身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。
1:10 富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。
1:11 太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。