見よ、神の子羊 (ヨハネの福音書1章29節)
アドベント第三週
序、アドベントにあたり、イエスは誰かを確認したい。もし「イエスは誰か」と聞かれたら、何と答えるだろうか。ユダヤ教の教師、病の癒し主、自然の支配者、抑圧された者の解放者、説教者、巡回伝道者など様々な言い方が可能だろうが、バプテスマのヨハネは「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した。短いが、的確な紹介である。今回はこの聖句を手掛かりとして、イエス・キリストとは誰かを確認したい。
1. キリストは罪を取り除く
ヨハネ福音書はギリシャ文化の下にある人々にイエスこそキリストであることを紹介するために書かれたものだと言えるが、その冒頭で使徒ヨハネは「はじめ(アルケ一)にことば(ロゴス)
があった」とイエスを紹介した。 ロゴスとはギリシャ人にとって原理・原則・論理などを意味する重要な概念だったが、ヨハネは、イエスを信じるとは単に原理・原則を信じるのとは意味が違うことを示していく。すなわち、イエスは罪を取り扱う存在であると書き継いで行くのである。
罪とは的外れの意味である。人間は原理・原則を知っても、その通りに生きられない罪人である。どれほど「こうあるべき」と知っていても、実際に生きてみるとそこから外れてしまう。だからこそ、原理・原則とともに罪が取り除かれる必要があるのであり、それを行うのがイエス・キリストだというのである。
2. キリストは小羊
しかし、「取り除く」とは「なくす」という意味ではない。ここでの「取り除く」(アイロー)は、「背負う」とも訳される言葉であり、「小羊」という表現がそれを反映している。イスラエルの民は牛や羊を自らの身代わりとして捧げることで神に罪の赦しを得て来たが、イエス・キリストは人の罪を背負い、身代わりに死ぬことを通して人を永遠の滅びから救い出す、その小羊だというのである。
この「身代わりによる敵し」とは、法的代表責任に基づく処置のことである。決して犯罪者本人の罪を誤魔化すための「身代わり出頭」のようなものではない。ある会社の社員が職務上でミスをし、顧客に迷惑をかけてしまった場合、その会社の代表役員が謝罪をし弁償をするならば、その社員個人は責任を免れる。それと同じで、第一のアダムがおかした罪を、第二のアダムなるキリストが人類の代表として代わりに弁済することで、各個人は刑罰を免れることができる。それが聖書が教える「赦し」な
のである。
私たちは自分の不徳や失敗ゆえに滅びることはない。神はキリストの身代わりを受け入れる者には、その人の徳のいかんにかかわらず、永遠の滅びからの解放を宣言してくださるのである。
3. キリストは神の小羊
さて、バプテスマのヨハネは、キリストが単に小羊だというだけでなく、「神の」小羊だと言った。「神の」とはどういう意味であろうか。「の」(属格)が名詞に付けられる時、そこには三つの意味の可能性がある。一つは所有を表す属格である。「私の本」
という時、私の所有物である本。私に属する本という意味が考えられる。 ここでの「神の小羊」も、同様に「神が所有する小羊」 「神に属する小羊」という意味が考えられる。
もう一つは「主格的属格」と呼ばれるもので、「私が書いた本」という意味で「私の本」 というような場合である。その意味の場合、「神の小羊」というのは「神が備えた小羊」
「神が与えた小羊」という意味になる。三つ目は、同格の属格である。「牧師の白石です」と言えば、「牧師である白石」という意味になる。それと同じで「神の小羊」と言えば「神である小羊」とい意味になり得る。
ここでの「神の小羊」には、以上の三つの意味すべてが当てはまると言える。イエスは神に属する小羊であり、神の備えた小羊であり、神である小羊なのである。要するに、神が主導権を握る中で、人の救いや贖いが全うされるということである。私たちは自分の救いの根拠を自分の人徳や功績に基づかせる必要がない。神が備えてくださる、神ご自身だとも言える小羊によって罪を取り去ってくださり、私たちは神との関係を回復して生きることが許されるのである。
結。
「見よ、神の小羊」とは、私たち自身の信仰の支えともなり、伝道の目標ともなる言葉ではないだろうか。不条理に悩む時。辱めを味わう時。痛み苦しみを経験する時。
「見よ、神の小羊」と自らに言い聞かせたい。慰めを得られるであろう。自らの罪深さに絶望しそうになる時も
、「見よ、神の小羊」と自らに向かって叫びたい。希望を得られるであろう。そして伝道においても、「見よ、神の小羊」は私たちの道案内となる。
伝道のゴールはその人が神の小羊に目を注いで生きるようになってくれることだからである。
いつの日か、聖書中の言葉として「見よ、神の小羊」が一般人にも知られるようになったら素晴らしいではないか。