幸いです ( マタイの福音書5章1〜12節)
序
日本のキリスト教会はマタイ5章1-12節を「山上の垂訓」と呼んで道徳訓として受け止めた。 キリストの恩寵(恩恵・めぐみ)に生かされるよりも、みずからが誠実なキリスト者として熱心に生きようと私たちは努めてきたのかもしれない。
勤勉で道徳的に生きることを旨とする日本人生来の理想を信仰的だと考えてきたのかもしれない。 はたしてそれが、主イエスが山上で語られたことなのだろうか?
1. 「幸福(さいわい)なるかな」
文語訳聖書はギリシア語の語順そのままに、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」と訳している。
幸福は神から無条件に与えられるものであり、人間が努力して勝ち取るものではない。 すべての人に等しく注がれる神の恩恵(一般恩恵)に、今もすべての人が包まれている。
キリストにある救いの恩恵(特別恩恵)は、選ばれて・信じる者にキリストから注がれている。 私たちが神の恩恵に包まれていることを、主イエスは「幸福(さいわい)なるかな」と言われたのではないか。
2.日本のキリスト教は「息苦しい」のか?
古来日本人は自分が正直であり、誠実であることを表わしたいという信念を抱き続けてきた。 日本のキリスト教もその傾向から抜けられないでいるのではないかと最近気付かされた。
プロテスタントの哲学者滝沢克己(1909-1984)は日本のキリスト教の「息苦しさ」を批判した。 自分の誠実さを表わすことを信仰と捉えてしまう。悔い改めを道徳的な改善と考えてしまう。
神の恩恵に与ることを喜ぶのでなく、自分が頑張り続ける「息苦しさ」を抱えているのでは?
主イエスの語られたことばを、「山上の垂訓」として道徳訓として読んできたのでは? それは道徳的で勤勉な「正しい人」として生きようとしているのであって、キリストの招かれる「罪人」になれないでいるのではないか?(マルコ2章17節)
3. 「大いに喜びなさい」
山上で主イエスが語られた「幸い」を受け止めたい。
幸いにも、私たちは神の前に自分の誠実さなど到底表わせない「心の貧しい者」である。
幸いにも、自分の貧しさを悲しんでいる私たちは神ご自身から慰められる。
幸いにも、神のものを自分のものだと固執しなくなった私たちは「地を受け継ぐ」者である。
幸いにも、この地に神の義が実現されないことを嘆いている私たちはやがて満ち足りる。
幸いにも、神のあわれみに押し出されている私たちはさらにあわれみをいただくことになる。
幸いにも、神のみこころを心に抱いている私たちは神の栄光を目にすることになる。
幸いにも、神からのシャローム(平和・平安)に生きようとする私たちは神の子どもである。
幸いにも、地にあって神の義を求めて苦しむ私たちは天の御国に生きる者である。
「御国が来ますように」と祈る私たちは、苦難のなかにも本当は大いに喜ぶべきである。
悲しんでいるようで実は深い喜びに生きているのが、私たちの幸いな姿なのではないか。
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マタイの福音書5章1〜12節
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
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