いのちの冠を目指して (ヤコブの手紙1章12〜15節)
「いのちの冠を目指して」 ヤコブの手紙1章12〜15節
1 試練(誘惑)に耐える人(12節) 「試練に耐える人は幸いです」(12節)とある。「試練」は「誘惑」とも訳すことができる。私たちは誘惑の原因となることがらに囲まれて生きている。そのような者たちに、ヤコブは私たちの心に襲い掛かる誘惑に耐え抜くなら、そこには「いのちの冠」が約束されている、と語る。「冠」とは当時ギリシャのオリンピックで優勝した選手に授けられるオリーブの枝で作った冠で、現代でもマラソン競技などの優勝選手に与えられる。私たちキリスト者は霊的なマラソンランナーである。主のみことばの補給をいただき、祈りつつ、聖霊なるお方の助けをいただき、また兄弟姉妹の励ましと祈りに支えられ、「いのちの冠」を目指して進む。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(ヨハネ黙示録2:10)と主イエスは約束しておられる。
2 誘惑の原因(13、14節) 誘惑の大もとはどこにあるのか、という問題に対するヤコブの議論が記されている。 「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません」とある。人が誘惑に陥り、罪を犯してしまうように神は働きかけておられると考える人がいる。結局は、罪を犯してしまうのは、自分の責任ではなく、神に責任があると言っていることになる。それは二つの理由で間違いだとヤコブは述べる。
第一の理由は神というお方のご性質のゆえである。「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません」とヤコブは語る。神は聖いお方であり、悪を憎まれるお方である。悪の誘惑に心惹かれるとは考えられないし、人を悪に誘うことは考えられない。もう一つの理由は、誘惑に陥るのは、人間の内側にその原因があるのだ、ということ。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです」とある。主イエスは「人の中から出て来るもの、それが人を汚すのです」(マルコ7:20)と述べ、具体的に人の中から出てくるものとして「淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」を挙げておられる。
3 誘惑に負けるとどうなるのか(15節) 「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」とある。人は何ら かの誘惑に欲が反応し、罪を犯す。その罪を犯し続けるなら、その行きつく先は死、霊的な死である。神との生きた関係がなくなってしまった状態こそが、人間にとって重大問題である。
主にお目にかかる時、感謝と喜びをもって冠を受ける者でありたい。逆に、誘惑に負け、主に喜ばれない状態に陥り、主との生きた交わりを失った死の状態になっていたとしたら、喜んで冠をいただくことができるだろうか。だが、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(ヨハネ第一1:10)。私たちのために十字架の上で死なれた主イエスのことばがある。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」(ヨハネの黙示録3:19)。
結語 2026年という新しい年が始まった。今年も試練や誘惑を受けることだろう。だが、勝利の道はある。私たちを心から愛して、道を逸れないように叱り、懲らしめてくださる主がおられる。何と幸いなことか。その愛を受け止めて日々を生きるものでありたい。